あなたは、「ポピュリズム」という言葉について、どう思われますか?
良いイメージをお持ちの方はあまり多くないのではないかと思います。少なくとも、一般的な報道で「良きもの」として扱われているケースは殆どありませんよね。
しかし、言葉の定義を含め、もう少し深く考えてみる必要があるのではないでしょうか。そこで、最近読んだ書籍と雑誌に、「ポピュリズム」に関する興味深い論考を見つけましたので、概要をかいつまんでご紹介させていただきたいと思います。
一つ目は、ザ・リアルインサイト2018年3月号の講演会にご登壇いただいた評論家、呉智英(くれ ともふさ)氏の最新刊
二つ目は、同じく2018年2月号の講演会にご登壇いただいた京都大学大学院教授で内閣官房参与の藤井聡が編集長をお務めの雑誌、
『表現者クライテリオン』最新号(2018年9号)(2018年,啓文社書房)
の特集「ポピュリズム肯定論」です。
両書に共通する部分として、
- 「ポピュリズム」という言葉が一般的になったのはここ最近である。
- 本来の意味は「悪しきもの」ではなかったが、現在は悪い意味でのみ用いられている。
という指摘があります。
また、どちらもスペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットの
『大衆の反逆』(オルテガ・イ・ガセット著,1995年,ちくま学芸文庫)
との関連に言及されています。
まず、
です。タイトルからして「衆愚社会」に警鐘を鳴らす書籍であることは明らかですが、「まえがき」からして面白い本であることが伝わります。
“(略)知の溶解は進み、言論人の劣化も著しい。かくして衆愚社会が出現しつつある。(略)知識人たるもの、言論人たるもの、ここで正鵠を射た暴言を発しなければならない。「じつにバカだ」と”
自ら「正鵠を射た“暴言”」と評されているのは、それがなんとなく流布している俗論とはかけ離れたものだからでしょう。
第一部「ポピュリズムを超えて」のうち、
“「ポピュリズム」すなわち愚民主主義について”(P.56)
の内容に触れてみたいと思います。
- 最近よく聞く「ポピュリズム」は「ポピュルス(民衆)主義」という意味だが、悪い意味で使われる。
- 「愚民主主義」と意訳すればわかりやすい。
- ほんのニ、三十年前までは、現在のような意味で使われていなかった。
- 元は文学用語で、一九三〇年代の文学潮流のことである。
- ここ10年ほど、悪い意味で使われるようになった。
- 大衆社会の病弊の露呈が著しくなったためである。
といった指摘に続き、オルテガの『大衆の反逆』が戦後三十年ほど反動的という評価をされていたものの、一九八〇年代からはしばしば言及される基本書となったことを挙げ、
「ポピュリズムの蔓延に危機感を抱く人も相当数いるのだ」
と主張されています。
そして、「国民の声」が政治に反映されやすくなることの危険性として、いくつかの史実が挙げられていきます。
・明治初期に新政府の強権政治に抵抗して全国で多数の一揆が起きた(これは、2018年8月号で配信中の小浜逸郎氏インタビュー「いまこそ福沢諭吉に学ぶ、現代日本の危機を超える視座」でも強調されています)
そのうちの一つに、「解放令反対一揆」というものがありました。明治四年(1871年)、政府が「被差別身分の廃止」を決めたのに対し、「民衆の怒り」が爆発し、いくつもの被差別部落が襲撃され、数十名の虐殺が起きたという史実ですが、民衆のルサンチマン(怨み)の反映形であるという点では、昨今の「ヘイトデモ」も同じ構造で
あるという指摘は、重いものではないでしょうか。
次に、明治三十八年(1905年)9月に日比谷公園で日露戦争終結に抗議して開かれた大規模な国民決起集会が暴動に発展し、警察署までが焼き討ちにあった「日比谷焼打事件」が取り上げられます。
日本は辛うじて勝利したものの、この「民意」を反映させて戦争を継続していれば、大敗北を喫し、日本は破滅していたであろうという指摘です。
さらに、制限選挙が普通選挙に変わった大正十四年(1925年)以降、民意はそれ以前よりはるかに確実に政治に反映されやすくなりました。
しかし、その普通選挙以後、日本は「戦争の時代」に突入することになります。
満洲事変(1931年)
支那事変(1937年)
大東亜戦争開戦(1941年)
これらはすべて普通選挙以後のことであり、普通選挙と同年に成立した、
「治安維持法」
が強化されたのも、普通選挙が成立普及して以後のことであるとして、
「普通選挙は言論弾圧・思想統制に対して全く無力であった。政治というものは、選挙というものは、民主主義というものは、このようなものなのである」
と続きます。
つまり、ポピュリズムそのものというより、衆愚政治を招く危険を内包している民主主義自体への強い懐疑が示されているように思います。
ポピュリズムも、現在の用法として定義しつつ、その危険性を論じる内容です。
「主権者が暴走や迷走を始めたら、誰もこれを止めることはできない。これこそポピュリズムであり、衆愚政治である。主権にこそ抑制装置を設けなければ、いつ暴走が始まるか分からない」
そして、衆愚政治を防ぐための手段として、「選挙権免許制度」の導入が提言されます。突飛な主張に聞こえるかもしれませんが、「選挙権免許試験」で問われるべき内容も含め、「なるほど」と肯ける内容になっています。
その他にも、世間に流布している思い込みや俗論が、いかに根拠の乏しいものであるかが数々の実例とともに明らかにされていますので、ご関心のある方は、是非同書でご確認下さい。
次に、
の特集「ポピュリズム肯定論」ですが、こちらは、小浜逸郎(こはま いつお)氏、藤井聡(ふじい さとし)氏、柴山桂太(しばやま けいた)氏、浜崎洋介(はまさき ようすけ)氏の対談をまとめたものです。
「ポピュリズム」の歴史的な経緯から始まり、
- 意味を狭めた用法への懐疑
- 反グローバリズムという要素
- 日米における「ポピュリズム」の明白な質的相違
- 農民運動としての「ポピュリズム」
- エニウェアーズVS.サムウェアーズ
- 実は不自由な「新自由主義」への反発
等多岐に渡る議論が繰り広げられているため、要約するのは難しいのですが、
- 格差の拡大
- 生活の困窮
- 既存政治への不信感
といった不満が、大きなうねりとなって表れているという意味では、現在の「ポピュリズム」は頭ごなしに否定のみされるべきではないという踏み込みは、確かに肯ける部分が大きいと感じました。
ポピュリズムは「大衆迎合主義」と訳されるのが一般的ですが、アメリカで起きている大衆迎合主義と日本で起きている大衆迎合主義は質的に異なるものであるという指摘も、今後の日本を考える上で重要だと思います。(この点については、ザ・リアルインサイト2018年6月号のインタビュー収録映像「なぜ日本人はグローバリズム幻想を捨てないのか」でも柴山氏が言及されていますので、会員の皆様は是非改めてご視聴いただければ幸いです)
また、日本の大衆の問題点として、「小さな既得権を叩く」という指摘と、「地域への愛着」、「常識」といった保守すべきものの溶解についての言及も、大事な視点だと感じました。
こちらでも言及されているとおり、オルテガが批判した「大衆」の意味を、正しく理解することも重要だと思います。
飢饉が原因の暴動では、一般大衆はパンを求めるのが普通だが、なんとそのためにパン屋を破壊するというのが彼らの普通のやり方なのである。この例は、今日の大衆が、彼らをはぐくんでくれる文明に対してとる、一層広範で複雑な態度の象徴的な例と言えよう。
(『大衆の反逆』P.89)
なお、『大衆の反逆』には、現在の感覚から言えば「差別的」であると捉えられるであろう言及も多数あります。
しかし、オルテガが意図したのは、「階級」としての大衆批判ではありません。同様に、ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige,高貴なる者の義務)も繰り返し言及されますが、単純に貴族を礼賛しているのでもありません。
その意味で、Wikipediaにある以下の記述は、本質を突いているように思います。
彼は特定の社会階級、すなわち、一般に大衆として考えられる多数の労働者階級を指して批判しているのではない。むしろ、近代化に伴い新たにエリート層として台頭し始めた専門家層、とくに「科学者」に対し、「近代の原始人、近代の野蛮人」と激しい批判を加えている。これは、彼がエリートと非エリートの区別を、その社会関係ではなく内面的、精神的な態度に求めていたことに関係がある。
大衆の反逆 – Wikipedia
「科学者」に対する批判も強烈なものですが、その根拠には説得力があり、今日の社会を考えると、その問題点はより一層深刻さを増しているようにさえ思えます。ご関心のある方は、こちらも是非ご一読下さい。
最後に、初読時より非常に印象に残っている部分を引用させていただきます。
第一部の
「三 時代の高さ」(P.36ー)では、
すべての時代において、自分の時代が過去の時代より劣っていると感じてきたわけでもないし、また、自分の時代が想起しうるすべての過ぎ去った時代に優っていると考えてきたわけでもない。
(『大衆の反逆』P.38)
「進歩史観」を根本から否定する時代認識ですが、この感覚をオルテガは「時代の高さ」と表現しています。
驚愕したのは、
ローマ帝国においては、紀元一五〇年からこうした生命の萎縮感、衰弱、脈搏低下の意識がしだいに増大していった。そのときすでに、ホラティウスはこう歌っていたのである。
祖父母に劣れる父母
(『大衆の反逆』P.39)
さらに劣れるわれらを生めり、
われら遠からずして、
より劣悪なる子孫を儲けん。
(頌歌第三の六)
という部分です。没落途上にある文明の中で、様々な問題が噴出しているという意味では、現代の日本が置かれた状況もこれに等しいのかもしれません。
同書の訳者解説に拠れば、オルテガが15歳だった1898年、祖国スペインはかつてない危機に直面しています。
米西戦争の敗北がそれで、植民地の全面的喪失、国際的威信の失墜という結果は、
「スペイン人を極めて大きな内的危機に陥れた」
ということです。
しかし、
“ この苦悩に満ちた悲惨な体験に対して強烈な反応を示したのが当時の若い知識層であった。彼らはこの悲劇的な現実に目を覆うことなく、逆に反省と責任感を増し、感受性を鋭敏にとぎ すましていった。(略)その活動分野は様々だったが、一八九八年の悲劇をすべての出発点とした点と、祖国を再建し、祖国をヨーロッパの水準にまで高めようとの目的意識においては完全に共通していた。このグループが「九八年の世代」という統一的な名称で呼ばれるようになったのもそのためである。”
という部分にこそ、見習うべき点があるのではないかと思います。
「ポピュリズム」についても、すぐに悪しきものとして思考停止せず、言葉の定義を明らかにした上で、その功罪や問題点について考えてみるべきではないでしょうか。
今回ご紹介した書籍を、その一助にご活用いただければ幸いです。
また、会員の皆様は、ご紹介させていただいたインタビュー・講演動画も、改めてじっくりとご視聴いただきたいと思っております。
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