こんばんは。
リアルインサイトの今堀です。
ここ数年、AI(人工知能)の進歩に関する報道が喧しいですね。
言及されることが多いのは、
- AIが人間の能力を超える「シンギュラリティ」の到来は近い。
- AI進展により、近い将来に自動運転車が 当たり前になる。
- AIの普及によって、今あるほとんどの仕事が 近い将来に奪われる。
といったものでしょうか。その論調を無理やり分けると、
- 楽観論(AIがもたらすバラ色の未来)
- 悲観論(AIがもたらす暗黒の未来)
のどちらかになるのではないかと思います。
単純に言えば、前者はAIによって人は労働から解放され、テクノロジーと一体化した「ポスト・ヒューマン」へと進化するといったもので、後者は今ある大多数の職業は近い将来AIに代替され、多くの人が職を失って路頭に迷うというものですね。
細かいことを言えば、前者にはBI(ベーシック・インカム)の導入を合わせて提唱する意見も少なくありませんし、後者にはAIの軍事利用加速が世界情勢を不安定化させ、核戦争のリスクすら高める、といった主張もあります。
AIの軍事利用で核戦争のリスク、米シンクタンクが指摘(MIT Technology Review, 2018年4月25日)
楽観論者として代表的なのは、他ならぬ「シンギュラリティ」という言葉を広めた、レイ・カーツワイル氏でしょう。
正確には「Technological Singularity」で、日本語では「技術的特異点」と訳されますが、「人工知能の世界的権威」であり、2012年以降はGoogleでAI研究を続けている同氏が広めた概念です。
それは、
「指数関数的に高度化する人工知能により、技術が持つ問題解決能力が指数関数的に高度化することで、人類に代わって、汎用人工知能あるいはポストヒューマンが文明の進歩の主役に躍り出る時点」
というもので、その時期を「2045年」としています。もっと簡単には、「自らを改良し続ける人工知能が生まれること」
だとも発言しています。
『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』
(レイ・カーツワイル著, NHK出版, 2007年 ※原著『The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology.』の刊行は2005年)
『シンギュラリティは近い[エッセンス版] 人類が生命を超越するとき』
(レイ・カーツワイル著, NHK出版, 2016年)
これらの著作自体は、テクノロジーの「指数関数」的進化の実態と、今後更にそれが加速することによって、起きうる変化を考えるには有用だと思います(何より「岩はどれくらい賢いか?」や「ナノボットの活用」「脳のスキャンとアップデート」等読み物として非常に面白い内容になっています)。
しかし、将来予測については過度に楽観的で、そのまま鵜呑みにすることには抵抗を覚えるのも事実です。
人類が「ポストヒューマン」に進化するという仮説自体、素直に歓迎してよいことなのかどうかも……
そして、個人的には、どうしても関心が向いてしまうのは、悲観的な未来の方です。
新たなテクノロジーは、大きな変化を及ぼすと期待されるものほど、弊害も大きくなる可能性が高いのではないでしょうか。
分かりやすい例としては、自動車の普及が社会をどう変えたかということがあります。
これについては、公害や事故の危険を含めた「真のコスト」について論じたり、クルマ社会の功罪を問い直す興味深い著作があります。
『自動車の社会的費用』
(宇沢弘文著,岩波書店,1974年)
『クルマを捨ててこそ地方は甦る』
(藤井聡著,PHP,2017年)
また、「原子力」についても同じことが言えるでしょう。東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故以降、反対運動も根強い「原発」ですが、そもそも我々日本人は、
「原子力の平和利用」
に非常に楽観的であった時期が長くありました。
私も大好きな「鉄腕アトム」のエネルギー源は「原子力」です。そもそも、名前の「アトム」からして「原子」のことですし、弟は「コバルト」、妹は「ウラン」という放射性元素そのものの名前になっています。
『鉄腕アトム』の原作が世に出たのはサンフランシスコ講和条約が発効し、日本が独立を回復した、1952年(昭和27年)4月のことでした(初出は前年の『アトム大使』)。
原爆投下の悲劇からそれほど時を経ずして、この「原子力」の設定が受け入れられたことには、驚きを禁じ得ません。
また、東日本大震災以後、設定に変化があったと指摘されていますが、『ドラえもん』も、その動力は元々「原子炉」とされていました。
サブカルチャーの一つである「漫画」ではありますが、こうした設定にも「世相」は反映されているのではないかと思います。
テクノロジーの進化がもたらすものに、功罪両方が考えられることには疑いがありません。AIについても、それが暗黒の未来をもたらす可能性を、考えずにはいられません。
そうした(主に未来の)暗黒社会を描いた物語のジャンルは、「ディストピア」と呼ばれています。「ユートピア」はトマス・モアの造語で、「理想郷」と訳されますが、「どこにもない世界」という意味も含んでいます。
「ディストピア」は「ユートピア」の反対で、「暗黒郷」等と訳されています。ディストピア小説や映画には、傑作が多数あります。古くは、偽りのユートピアで暮らす「エロイ」と、それを捕食する獰猛な「モーロック」の2種に分岐して進化した人類を描いた、
H・G・ウェルズの『タイム・マシン』(1895年)
がありますが、その他では、全体主義の超監視社会を描いた、
や「消防士」が禁じられた「書物」を焚書して回る、
レイ・ブラッドベリの『華氏451度(Fahrenheit 451)』(1953年)、
映画『ブレードランナー』の原作となった、
フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』(1968年)
等が代表的でしょうか。
も、広義ではディストピア小説の範疇に入るのかもしれません。スウィフトはアイルランド人で、当時の大英帝国の圧政を風刺して、同書を著したとされています。つまり、未来ではなく、現に存在していたディストピアを呪ったものかもしれません。
ここに登場する国名から題材を採った映画『天空の城ラピュタ』では、重要な役割を担うムスカという人物がラピュタを評して、
「全地上を支配した恐怖の帝国だったのだ」
という有名なセリフを口にしますが、ガリヴァー旅行記に登場する
「ラピュータ」
の実態こそ、まさに「恐怖の帝国」そのものです。
スウィフトがアイルランドに擬えたであろう「バルニバービ」が反抗すると、天空の浮島であるラピュータはそのその領土ごと移動して日光を遮り、バルニバービの農業を妨害して飢えさせたり、もっとひどい場合には着地して押し潰しさえするのです。
ちなみに、「ラピュータ(La puta)」はスペイン語で「売春婦」の意味で、現在も罵倒語としてよく使われる言葉のようです。スウィフトが大英帝国に擬えた国にこのような名前をつけた理由は、言うまでもないでしょう(このため、ディズニーが配給した『ラピュタ』の英語版では、タイトルが『Castle in the sky』に変更され、「ラピュタ」は隠されていました)。
ガリヴァーは船医ですが、航海に出る度に遭難してしまうような極端に運のない人物で、その都度奇妙な国に流れ着いています。有名な小人の国「リリパット」や巨人の国「ブロブディンナグ」だけでなく、前記の「ラピュータ」や「日本」にも訪れています。そして、ガリヴァーが最も気に入ったのは、馬が高度な社会を形成している「フウイヌム」でした。
これらの体験を記したという体裁の物語が『ガリヴァー旅行記』ですから、見方によっては
とも類似していますね。
「ほらふき男爵」の元になったのは、実在したミュンヒハウゼン男爵というプロイセン(ドイツ)の貴族です。創作話が得意で多くの客人を楽しませたそうですが、不本意な形でその創作が出版されてしまったというのが作品の由来のようです。
病的虚言や仮病を特徴とする
「ミュンヒハウゼン症候群」
という精神疾患にも名前を使われていますが、これは気の毒なことのような気がします。
そして、スウィフトの風刺には、さらに衝撃的な、
『アイルランドにおける貧民の子女が、その両親ならびに国家にとっての重荷となることを防止し、かつ社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案』(1729年)
という著作もあります(青空文庫で無料公開されています)。
これは、虐げられたアイルランドの貧民の子供を、「食料」として育てることが問題の解決になると論じた奇書であり、夏目漱石はこれを読んで、
「これをまじめとすれば純然たる狂人である」と評しています(『文学評論』)。
オーウェルが『一九八四年』を著したのは、第二次世界大戦後の「冷戦」が始まった時期である、1949年でした。当然ながら、登場する権力者「ビッグ・ブラザー」のモデルは、ソ連の独裁者であったヨシフ・スターリンでしょう。
ビッグ・ブラザーがあなたを見守っている(Big Brother is watching you)
思想を統制され、全ての生活を監視されているという状況は、現代の社会においても、テクノロジーの発達によって、かなりの程度実現してしまっているという見方ができるかもしれません。
少し話が逸れますが、私はスティング(Sting)という英国人歌手が好きでした。中学生の時に「English man in New York」という曲を聞いて、「エイリアン(alien) 」という言葉には「外国人」という意味もあることを知りました。
とはいえ、
エイリアンといえば、どうしてもシガニー・ウィーバーを襲う、あの後頭部の長い漆黒の宇宙人の姿を想像してしまいますが・・・
スティングがポリス(The Police)というバンドに在籍していた時に作詞・作曲した
「Every Breath You Take」という曲は、皆様もご存じなのではないでしょうか?
こちらで和訳をご覧いただけますが、歌詞をよく読んでみると、かなり不気味なものを感じます。
Every Breath You Take(邦題:見つめていたい)の歌詞和訳
ストーカーの独白のようにも思えますし、後に先述の『一九八四年』を読んだ時に思い出したのは、
「あの歌詞はビッグ・ブラザーみたいだな」
ということでした。
そして、最近知って驚いたのが、スティング自身が1993年のインタビューで「ビッグ・ブラザーをイメージして書いた」(1993年5月1日・Independent)と話していたことです。
「ラブソングのように聞こえる」曲が、「ディストピアの独裁者について考えて」書かれたのは、面白いながらも皮肉ですね。
そもそも、近未来を描いたSF映画は、基本的にその大多数がディストピアものだとも言えるかもしれません。
スティーブン・スピルバーグ監督の最新作『レディ・プレイヤー・ワン』も間違いなくディストピアを描いたものですし、プロットとしては『マトリックス』に共通する部分もあるような気がします。
そして、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は、核戦争後の地球で人工知能を持つアンドロイドが、人間と見分けがつかない水準まで進化した未来を舞台としています。主人公の職業は、逃亡したアンドロイドを「処理」する賞金稼ぎなのです。
そして、「ロボット三原則」で有名なアイザック・アシモフの短編
を下敷きにしたウィル・スミスの主演映画、『I, Robot』も、人間に近い感情を持つロボットである「サニー」が、開発者である博士を殺した容疑者と
されることから展開するものの、真犯人はロボット三原則を拡大解釈した中枢コンピューター「ヴィキ」であり、愚かな行いで自らを滅ぼそうとする人類を「支配」することで保護しようと目論んでいた、というストーリーでした。
さらに、
「人工知能が人類を滅亡させようとする」
と言えば、絶対に外せない映画が『ターミネーター』シリーズでしょう。サイバーダイン社が開発した人工知能、「スカイネット」が核戦争後の世界で「ターミネーター」を開発し、人類の抵抗軍指導者の母親を抹殺するためにタイムマシンで現代社会に送り込んでくるという物語でした。
こうしたSF映画のような未来は流石に荒唐無稽かもしれませんが、AIの進歩が
「ディストピア」
をもたらす可能性は、これにとどまらないのではないでしょうか。
すみません。
長くなりすぎてしまいましたので、
続きます。。。
リアルインサイト 今堀 健司