こんにちは。リアルインサイトの今堀です。

本日、オウム真理教の教祖だった麻原彰晃(あさはら しょうこう)こと松本智津夫(まつもと ちづお)死刑囚を含む、複数の死刑囚の死刑が執行されたことが一斉に報じられました。

今年3月、同教団による一連の事件で死刑が確定していた13人のうち7人が東京拘置所から全国5カ所の拘置施設に移送されたことから、執行が近づいたのではないかという観測が多く出ていましたが、遂にそれが現実となりました。

なぜこのタイミングなのかは不明ですが、今年1月にオウム事件関連の裁判がすべて終了し、

死刑囚が証人として出廷する可能性がなくなった

ことが大きいのかもしれません。

化学兵器のサリンを用いて無差別テロという前代未聞の大事件を起こした団体であることに加え、国際的な潮流として廃止が進む「死刑」に対する注目は世界的に高く、海外のメディアも一斉に今回の執行について報じているようです。

我が国は先進国では数少ない「死刑」存置国です。

国民感情として「死刑廃止」があまり支持を受けていないことは明らかで、内閣府が2014年に実施した世論調査への回答では、

「死刑は廃止すべきである」が9.7%
「死刑もやむを得ない」が80.3%

平成26年度 基本的法制度に関する世論調査 調査結果の概要(内閣府)

となっています。

私は個人的に、「世論」というものを盲信すべきではないと考えているものの、「死刑存廃」については多数派と同意見です。理由は複数ありますが、死刑はそもそも「罰」なのであって、犯罪抑止力になり得るかどうかはそれほど重要でないと考えます。

また、「人権」という思想が、無制限に尊重すべき真理であるとは到底思えません。

ある「人権派」弁護士が、妻が殺人被害者となったことで、死刑賛成派に転向したという例がありました。この方は日弁連の副会長も務めた人物で、6月に解散した「全国犯罪被害者の会(あすの会)」の設立メンバーでもあります。

「あすの会」は「光市母子殺害事件」被害者のご遺族らとともに立ち上げた会で、殺人罪の時効撤廃や刑事裁判への被害者参加などを実現し、

犯罪被害者が置かれた環境の改善という一定の目的を果たせた

としているとおり、その活動には大きな意義があったと思います。

この弁護士ご本人が、かつて

妻を亡くして、初めて常識に立ち戻れた

と発言(『Voice』2008年6月号)されています。

犯人はこの弁護士が顧問を務めていた山一證券の元顧客でした。犯行動機は株式投資で損失を被ったことを逆恨みしたもので、ご本人の留守中に対応された奥様が犠牲となった痛ましい事件ですが、家族が殺人被害者になってしまうまで、「人権思想」に「想像力」を奪われていたのではないかと考えると複雑な心境になります。

EU(欧州連合)は、皆様もご存じのとおり「死刑制度」に反対しており、我が国にも死刑廃止を求めています。

「EUは死刑制度のない世界を求めています」

(2015年12月・駐日欧州連合代表部)

このパンフレットでは、一般的に「先進国」の最大の定義とされる「OECD(経済協力開発機構)」加盟国(34カ国)中、死刑制度を存置しているのは日本、韓国、米国のみであるとした上で、韓国は17年以上死刑を執行しておらず、米国も19州で死刑を廃止(いずれも2015年12月時点)していることを挙げています。

しかし、日本における直近10年の死刑執行の人数が一桁で推移しているのに対し、米国では

警官が射殺する

市民が毎年数百人に及んでいるという現実もあります。ワシントン・ポスト紙は、アメリカ国内で警察官に射殺された市民が、

2017年に987人

2018年入ってから519人

Police shootings 2017 database – Washington Post

2018 police shootings database – Washington Post

という驚くべき数に達していることを報じています。

また、OECD加盟国ではありませんが、毎年膨大な数の死刑が執行されているのが中国です。共産党政府は正確な死刑執行者の数を国家機密であるとして公表していないものの、

年間数千人

世界の死刑執行数、昨年は中国がトップ 米国は1991年以来最低に(2017年4月11日・ロイター)

であることは認めています。

それでも、国情はそれぞれ異なりますので、一概に「こうあるべき」という基準はなく、死刑存廃の判断は、国家主権に委ねられるべきものでしょう。

ここで少し視点を変えますが、死刑執行は当然それを「任務」として誰かが実行しなければなりません。

フランス革命後にルイ16世を処刑したシャルル-アンリ・サンソンという人物は、「世襲の処刑人」であるサンソン家の四代目当主でした。

『死刑執行人サンソン ―国王ルイ十六世の首を刎ねた男』(安藤正勝著・2003年・集英社)

地位と特権、高い所得のある身分でありながら、同時に強い差別にも晒されていたようです。職業といえども、人の命を奪うことについては、やはり強い禁忌の感情が存在していたことが伺えます。前掲書には、「世襲の処刑人」としての深い苦悩が詳細に描写されています。

そして、我が国の死刑制度も、この禁忌を前提としたものになっているようです。死刑が執行されるのは拘置所で、刑務官がボタンを押すと、首にロープがかけられた死刑囚が立っている床板が開く仕組みになっているそうですが、そのボタンというのが一つではなく三つから五つあるらしいのです。

実際に機能するボタンを分からなくすることで、良心の呵責を分散し、低減させるための智慧なのではないかと思われます。 (それでも、過酷極まりない任務であることは想像に難くありません。)

外国で行われる銃殺刑についても同様で、銃撃を行う執行者は複数人いることが一般的のようです。これはもちろん、執行を確実なものとする目的があるのでしょうが、同時に

自分が致命傷を与えたのではない

と考えられる余地を残すことも重要なのではないでしょうか。語られることが少ないように思えるものの、こうした現実も「死刑制度」を考える上で、忘れてはならない点でしょう。

刑事訴訟法第475条では、

法務大臣は死刑確定後6カ月以内に執行を命令しなければならない

刑事訴訟法第475条

ことが規定されています。

しかし、民主党政権時代には、自らの信条により、在任中の死刑執行命令への署名を拒否した法務大臣がいました。

「江田五月法務大臣の死刑執行命令書への署名拒否に関する質問主意書」(2011年8月22日・衆議院)

反対に、在任中に執行命令に署名したために、朝日新聞に「死神」と書かれた自公政権時の法務大臣もいました。(こちらは、「あすの会」の抗議に対し、朝日新聞が事実上謝罪しています)

「死に神」コラムで朝日新聞が「謝罪」「自らの不明を恥じるしかありません」(J−Castニュース・2008年8月1日)

重大な刑罰でありながら、個人の信条や裁量で執行が左右されてしまう余地があることも、大きな問題と言えるかもしれません。

また、さらにもう一点付け加えるならば、「死刑廃止」論における大きな論拠として、誤審や冤罪の可能性というものがあります。現実に、1992年に福岡県飯塚市で発生した2人の女児殺害事件(「飯塚事件」)では、2008年に死刑を執行された元死刑囚の妻が再審請求を行い、福岡地裁・福岡高裁で棄却されたために、現在最高裁に特別抗告中です。

既に死刑が執行されていることを思えば、本当に冤罪だった場合、もはや取り返しがつきません。この事件については、ジャーナリストの清水潔氏が著作

『殺人犯はそこにいる』(2013年・新潮社)

等で冤罪の可能性を主張しています。同書は2016年、手書きのカバーで中身を隠して販売された『文庫X』として大きな話題になり、30万部を超えるベストセラーとなりました。

絶対にあってはならないはずの冤罪事件は、戦後の日本でも数多く発生しています。例えば、前掲書の主要テーマである1990年の「足利事件」は、皆様のご記憶にも新しいのではないでしょうか。この事件では、犯人とされた方に無期懲役刑が確定し、再審請求によって釈放されるまでに、17年もの歳月が経過してしまいました。

そして、清水氏はなんと、真犯人の可能性が高い人物の特定にまで至っているのですが、2010年4月の刑事訴訟法改正による時効廃止の前に公訴時効が完成した事件であり、刑事訴追の機会は失われてしまいました。

また、世界的にも評価が高いはずの日本の警察だけでなく、司法が犯してきた過ちの数々を、

『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか ~冤罪、虐殺、正しい心』(管賀江留郎著,2016年,洋泉社)

が明らかにしています。このような事実を知れば、どなたでも戦慄を覚えられることでしょう。

「冤罪事件」は、無辜を罰するという過ちと同時に、真犯人を取り逃すという重大な結果も生じさせてしまいます。冤罪の発生をいかに防止するかについても、一層の検討が必須だと思います。

国際的な潮流として、「死刑廃止」が拡がっていることや、我が国にもそれが要請されていることも事実です。

しかし、そのような「流れ」といったものにとらわれず、国家として日本がどうあるべきかを考える必要があります。

また、

  • 処罰感情
  • 執行者の負担
  • 冤罪の可能性

といった語られることの少ない様々な点も見落としてはいけないのではないでしょうか。

暗い話題となり恐縮ですが、ご紹介させていただいた書籍もご参考に、皆様にも是非お考えいただければ幸いです。

リアルインサイト 今堀 健司