いきなりですが、ひとつクイズに挑戦してみてください。
「ボールとバットを合わせて1ドル10セントする。バットはボールよりも1ドル高い。ボールはいくらか?」
簡単ですよね? でも・・・
「10セント」
と答えたなら、残念ながら間違いです。
もし、ボールが10セントならば、それより1ドル高いバットだけで1ドル10セントになってしまいますからね。
ですので、もう一度ゆっくり考えてみましょう。
例えば、求めたいボールの値段をx(エックス)とすれば、以下の式が成り立ちます。
x+(x+1)=1.1
括弧を展開すると、
2x+1=1.1
なので、両辺から1を引くと、
2x=0.1
となり、
さらに両辺を2で割れば、
x=0.05
となるので、ボールの値段は10セントではなく5セントであることがわかります。つまり、中学校一年生で習う一次方程式でも簡単に解くことができるわけです。
このように少し考えればわかりますが、大多数の人は即座に「10セント」と答えたくなる強い衝動に駆られるそうです。
これは、カナダのジャーナリスト、ダン・ガードナー氏の著書、
『リスクにあなたは騙される』*
から引用しましたが、元は2002年にノーベル経済学賞を受賞した米プリンストン大学名誉教授の心理学者ダニエル・カーネマン氏が50年間にわたって人々に出してきた問題なので、既にご存じの方も多いかもしれません。
カーネマン教授は、人間の思考には
「速い(ファスト)思考」
「遅い(スロー)思考」
の二つがあるとして、
前者を「システム1」
後者を「システム2」
と呼んでいます。
システム1は自動的に高速で働き、努力はまったく不要か、必要であってもわずかであるのに対し、システム2は複雑な計算など頭を使わなければできない困難な知的活動にしかるべき注意を割り当てる
ということです。
システム1はいわば無意識の動きに近いものですから、例えば車の運転のように、最初はシステム2でこなしていたものが、習熟することでシステム1に移行するということもあるわけですね。これは、人間が進化の過程で獲得した力で、即座に状況を判断するために有用なものなのでしょう。
システム1の下す直感的な判断はだいたいにおいて適切だ。が、物事をより単純化して答えようとするきらいがある上に(この単純化をヒューリスティクスと呼ぶ)、論理や統計がほとんどわからない、しかもスイッチオフできないという難点がある。これに対し、システム2の下す判断は緻密で的確であり、システム1の衝動的判断を抑える働きをしている。であれば、システム1の判断を常に監視して肩代わりすればよいと思うかもしれないが、システム2の働きは遅くて効率が悪いため、その方法で判断の連続である日常生活を滞りなく送ることは難しいだろう。システム2は怠け者でもある。システム1が提案した考えや行動を厳しくチェックしているかといえば必ずしもそうではない。
『ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?』*3
少し長い引用となってしまいましたが、これが、カーネマン教授が冒頭の「ボールとバット」問題を例示する前に書いている文章です。「システム1の衝動的判断」がいかに強く作用するものかを体感していただけたのではないでしょうか。
この問題に回答した大学生は数千人にも上るが、なんと、ハーバード大学、マサチューセッツ工科大学、プリンストン大学の学生のうちの50%以上が間違った答えを出したのである。
同上
ということですから、間違えたとしても落ち込まれる必要はありません。
ちなみに、前出のダン・ガードナー氏はより容易に理解しやすくするために、
「システム1」を「腹」
「システム2」を「頭」
と表現しています。*
素早く直感的に概ね正しい答えを導く「腹」と、その衝動的な判断を監視して、より合理的な答えを導くことができるが怠け者である「頭」ということですね。
確かに、私達の日常生活における思考の大部分は「頭」でなく「腹」が担っているのだと思います。それで殆どのことがうまく運んでいるのが現実でしょう。しかし、この「腹」は、様々な認知バイアス(誤りを犯しやすい偏り)を生み出す元でもあります。
認知バイアスには、災害や事件、事故等に遭遇しそうになっても、「自分だけは大丈夫」だと思い込んでしまう
「正常性バイアス(Normalcy bias)」
都合のいい情報だけを収集して自分の先入観を補強し続けてしまう
「確証バイアス(Confirmation bias)」
のように、複数の種類があります。また、ときにかなり厄介なものになりかねないのが、過去の見解や予想に固執してしまい、新しい情報を柔軟に受け入れられなくなる、
「保守性バイアス(Conservatism bias)」
です。
これまでにもザ・リアルインサイトで繰り返し取り上げてきた
「現代貨幣理論(MMT,Modern Monetary Theory)」
に対する攻撃もその一つと言えるでしょう。
大著『富国と強兵』*4
で、いちはやく日本にMMTを紹介された元京都大学大学院准教授の評論家、中野剛志(なかの たけし)氏は、今年刊行された
『全国民が読んだら歴史が変わる奇跡の経済教室【戦略偏】』*5
で、MMTが受け入れられない心理学的な理由を二つ挙げられているのですが、その一つが
「センメルヴェイス反射」
というものです。これは、センメルヴェイス(ゼンメルヴァイスとも)・イグナーツという、19世紀中頃の医師の名前に由来し、
「通説にそぐわない見解を拒否する傾向」
を意味します。
1847年、ウィーン総合病院に勤務していたセンメルヴェイスは、多くの産婦の死因となっていた産褥熱(さんじょくねつ)の原因が、
「医師の汚れた手」
にあるのではないかと考え、分娩を担当する医師の手を消毒することにしたところ、産褥熱による死亡が劇的に減少しました。
しかし、この大発見に当時の医師たちは誰も見向きもせず、受け入れようとはしなかったのです。というのも、この発見が事実なら、それが、
「長年、医師が素手で大勢の母子を殺してきた」
という恐るべき事実を意味するからに他なりません。
センメルヴェイスは、1850年に病院を解任された後も、必死にこの事実を広めようと主張を続けますが、ついには精神病院に入れられ、そこで亡くなってしまいます(逃亡を試みた際に受けた暴力が原因となったという説もあります)。
病原体としてのウイルスはおろか、細菌の存在さえ知られていなかった時代の話とはいえ、医師が手を洗うようになってから、まだ200年も経っていないことにも改めて驚きますが、社会的動物としての人間が、事実を受け入れたくないがためにどれだけ不条理な行動に出るかを示す良い例ですね。
中野氏も言及されているように、最近の神経科学によれば、「センメルヴェイス反射」は脳の働きによるものだそうです。
ここ数十年の認知心理学や神経科学といった分野の進展には目覚ましいものがあり、人間が多くの場合であまり合理的ではないことが、どんどん明らかになってきています。
ダニエル・カーネマン教授が心理学者として初めてのノーベル経済学賞受賞者となったのは17年も前ですが、現在でも「合理的経済人」を経済主体と前提した主流派経済学は主流派のまま生き残っています。
中野氏は、MMTを「地動説」に擬えられてもいますが、正しい理論がその正しさのみによって受け入れられるとは限らず、転換には時間がかかるのでしょう。
自分の先入観や思い込みにとらわれず、真実を追求するためには、常に虚心坦懐に情報に接する必要があることを改めて肝に命じたいと思います。
MMTに関しては、最近元内閣官房参与で京都大学大学院教授の藤井聡(ふじい さとし)氏が、
『MMTによる令和「新」経済論:現代貨幣理論の真実』*6
を、経済評論家の島倉原(しまくら はじめ)氏が、
『MMT〈現代貨幣理論〉とは何か日本を救う反緊縮理論』*7
をそれぞれ刊行されています。
MMTにご関心がおありの方は、中野氏の『奇跡の経済教室』と合わせ、是非お手にとってみてください。
また、ザ・リアルインサイト会員の皆様は、
2019年10月号
島倉原氏インタビュー「MMT(現代貨幣理論)が突き崩す “財政破綻”神話」
2019年9月号
藤井聡氏インタビュー「令和の政策“大転換”を実現せよ」及び「MMTが突きつける現実は経済政策を変えうるか」
2019年6月号
中野剛志氏インタビュー「お金の正体とMMT(現代貨幣理論)」
も、是非改めてご覧いただければ幸いです。
それでは、また。
リアルインサイト 今堀 健司
【引用・参照文献等】
*『リスクにあなたは騙される』(ダン・ガードナー著,早川書房,2014年)
*2 「人間の非合理性」を科学する(2011年11月1日・WIRED)
*3 『ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?(上)』(ダニエル・カーネマン著,早川書房,2014年)
『ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?(下)』(ダニエル・カーネマン著,早川書房,2014年)
*4 『富国と強兵』(中野剛志著,東洋経済新報社,2016年)
*5 『全国民が読んだら歴史が変わる奇跡の経済教室【戦略編】』(中野剛志著,ベストセラーズ,2016年)
センメルヴェイスの悲劇は、こちらの書籍と漫画でも取り上げられています。
『決してマネしないでください。』(蛇蔵著,講談社,2014年)
*6『MMTによる令和「新」経済論:現代貨幣理論の真実』(藤井聡著,晶文社,2019年)
*7『MMT〈現代貨幣理論〉とは何か 日本を救う反緊縮理論』(島倉原著,KADOKAWA,2019年)
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